上遠野地区
    遠野和紙
    上遠野城(八潮見城)
    遠野そば

入遠野地区
    アユヤナ場
    遠野まんじゅう
    オートキャンプ場
    天王川トロン温泉
    遠野豆腐
    ガラス館
    手作り工房
    アートギャラリー
    うなぎ養殖場
    冷水遺跡

田人地区
    田人まんじゅう
    田人こんにゃく
    石割桜
    御斎所峠
    鮫川渓谷


遠野地区地域資源

  1 自然

      山  三大明神山 706m  鶴石山 767.5m  二ツ石山 751.2m
         天狗山 631.4m  往生山 599.1m  滝富士 306.3m

      川・海岸  鮫川 65,041m  入遠野川 11,000m  釜戸川 18,216m

         鮫川渓谷…御斉所街道が渓谷沿いに走り、渓流釣りが楽しめる
         入川渓谷…入遠野川の上流  
         岩崎清水(上根本)

      植物・花  
         県天然記念物:二本スギ(入遠野・八坂神社)
         市天然記念物:ムクロジ・サカキ群(大平・熊野神社)
         市保存樹木  :スギ(根岸・諏訪神社)
                   ウラジロガシ林(入遠野字久保目)
                   シラカシ林(大平・熊野神社)

      動物  ヤマメ・ウグイ・アユ(鮫川水系)

  2 施設

      温泉・鉱泉  中根の湯…冷鉱泉  
               銅谷鉱泉…単純アルカリ冷泉  

      ゴルフ場   湯本スプリングスカントリー倶楽部(18ホール)

      キャンプ場  遠野オートキャンプ場

      スポーツ・レクレーション施設  遠野市民運動場

      遺跡・史跡・町並み  亀岡城跡(土塁・郭・空堀・虎口(上滝))
                    陣野城跡(郭・石垣・堅堀・虎口・櫓台(滝))

  3 ひと・もの

      工芸品 いわき遠野和紙・紙漉 瀬谷安雄(深山田)  
            鍛冶(上遠野)
            竹籠づくり・竹細工(根岸)  
            桶製造(大平)  
            恐竜絵入り石炭(有)宝船工房(滝)
            いわき縁起張子小松典時(滝)

      特産品  いんげん・しいたけ(遠野路) 
             遠野とうふ・遠野みそ(JA遠野町農産物加工センター)
             遠野まんじゅう(柴崎菓子店)
             いわき遠野和牛牛肉みそ漬(農業生産法人(有)いわきふるさと農場)
             いわき和牛佃煮(いわき牛育成振興会)
             こんにゃく((有)佐川食品)

      祭り、行事、イベント、暮らし
            4月:八坂神社の例大祭  
            7月:アユ釣り解禁
           10月:八幡神社の例大祭
           11月:遠野町健康ウォーキング大会  遠野地区市民文化祭

      著名人  佐川 剛一(舞台俳優 1962年〜)

   ※参考資料
      いわき市の農林水産業(いわき市農林水産部) 
      EQUAL(いわき地域環境科学会誌) 
      新しいいわきの歴史(いわき地域学会)  いわき百景(いわき市) 
      いわきの人物史(いわき地域学会)  いわき浪漫紀行(いわき市)  
      いわきの淡水魚(いわき地域学会)  
      いわき市保存樹木・樹林ガイド(いわき市公園緑地協会)
遠野和紙  いわきに和紙の産地があることは余り知られなくなったが、遠野和紙は希少価値のうえに立ってその伝統産業を守り続けている。
 資料によると、遠野の和紙づくりはいまから二百五十年も前にさかのぼるそうで、つくった和紙を船や馬で江戸へ送ったというから、当時は非常に重要な産業であったはずである。
 明治に入ってから、この和紙づくりが農閑期の副業として遠野・高野・田人などから歓迎され、一時は八百軒もの農家で紙すきを行ったが、やがて洋紙が登場するとともに機械すきが普及し、それに常磐炭田の開発で川の水も汚れたために紙すきをやめる農家が多くなり、上遠野や入遠野の一部で細々と生産しながら、その製法を温存して来たのである。 遠野に紙すきが生まれ、遠野にだけそれが残った事情には、原料となる「こうぞ」の質と量、紙をさらすきれいな水、紙すきに適当な気候などの条件が合ったためではないかと織者はいう。
 こうぞが紙になる過程は大変面倒で手数もかかり、その一連の工程を記録するため、三日も産地通いした事実がそれを証明する。
 近年遠野和紙の純日本的な肌合いが、美術関係などから尊重されているというが、紙すきの全工程に流れる素朴で原始的な生産方式は、機械文明の先走りで忘れていた手工芸の巧みさが興をそそった。

(写真で綴るいわきの伝統)より
著者  草野 日出雄  発行  株式会社はましん企画事業部

遠野和紙は磐城延紙(のべがみ)と呼ばれ、地元では障子紙として、また江戸では帳薄や記録用紙として用いられました。平成14年に市有形民俗文化財の指定を受けました。 
県指定重要文化財(円通寺所有) 指 定 昭和51年5月4日
所在地 いわき市遠野町上遠野字根小屋40
室町時代(14世紀)  像高 78cm

 檜材寄木造り、両袖先と膝部を矧ぎ合せ、頭部は首柄で体部に差し込む。高い宝髻を結い、宝冠、首と胸に瓔珞を付け、玉花を開こうとする通例の像容となっている。
 注目されるのは面長な女性的顔貌、両肩を被って流れる柔らかい衣文の表現と、その両袖、裳裾を台座から垂れる垂下様式になっていることである。勝行院(常磐湯本町)の釈迦如来坐像(県指定)の場合は、両袖先を直接長く垂らし、裾先も二重に垂し、裾先の垂下も短く一重になる新しい様式を示す。
 また、浄智寺(鎌倉市山ノ内)の過去・現在・未来を象徴する三世仏像(弥陀・釈迦・弥勒)や、覚園寺の日光・月光像の場合は、両袖先の垂下はなく、裳裾のみを左右対称に長く垂らす方式をとっているから、垂下方式も種々あったことがわかる。円通寺は、大同2年(807)徳一の開基と伝えられ、永享12年(1440)2月、真言宗願行流左久山方の宥徳上人により再建され、土地の豪族上遠野大炊頭の庇護を受けたという。聖観音はこの再建期の室町時代初期の制作と考えられる。高い宝髻、面相、耳朶の薄い造り、台座などはその時代の特徴を示している。
 ともあれこの聖観音坐像は、北関東の仏像彫刻史上、垂下様式の1つの展開過程を示す貴重な資料である。これはやがて両袖先だけを垂下する、相応(安達郡大玉村)の薬師如来坐像〔宝徳4年(1452年)4〕に影響をあたえたものと推定される。
 いわき市の文化財より
御斎所山熊野神社社叢(指定 昭和51年3月)
所在地 いわき市田人黒田字斎道117

 鮫川に沿った御斎所峠から南に見える急傾斜の自然林が、御斎所山熊野神社の社叢である。見落葉樹林のように見えるが、常緑広葉・針葉樹わをまじえた阿武隈山地の象微的な森林である。
 御斎所山は硬い変成岩の山で、風化が進まず土壌が発達しにくい。岩魂が露出した急峻地には松林が成立し、下層に根が浅く細いツツジ類と、地表にイワウチワが生えている。マツはアカマツとキタゴヨウで、ツツジ類はトウゴクミツバツツジ・アブラツツジ・シロヤシオ・ヤマツツジなどである。
 部分地は土嚢が発達し、モミ・イスブナ・カヤ・アカシデ・ケヤキ等の高木が生えており、その間にリョウブ・アセビ・イガシ・ミヤマシキミ等が生育し、モミラン・ヨウラクラン・クモランなどの着生らん類も知られている。
 このうちキタゴヨウ・シロヤシオ・ミツデカエデは温帯性の、ヤブツバキ・ウラジロガシ・アカガシ・モミラン・カヤラン・ヨウラクラン・クモランは暖帯性の植物で、モミ・イヌブナ・アカシデ・は両気候帯の中間に生育する。
 中間温帯植生は年間気温較差が大きい東日本ほど顕著で、阿武隈山地では山麓から中腹にかかる地域にあたり、いわき市のほぼ中央を北東から南西に走っていつ。
 上遠野城を一般に「八潮見城」などの俗称があるが、地名を正式な城名とするのが定説であるから、上遠野城が正式名である。

 城の特色は、戦国時代「磐城」を統一して支配した、岩城家の領内においては、めずらしく石垣を使用した平山城である。城の重要な部分は宇根古屋の平坦な地にあった。

 但し石垣の問題、築城時代を知る事にもつながる。

 城主は、であった「上遠野家」は、その祖を「俵籐太秀郷」とする下野国(栃木県)小山荘の豪族小山家の分流である。

 鎌倉幕府の成立に功績があった「小山朝政」は、源瀬朝より菊田荘の総地頭に任じられた。

 嫡家は、代々弟達を分家して行ったがそうした分家の一人が上遠野郷の半分を領して成立したのが上遠野家であった。だから、入の上遠野と称された地にその居住の館を築いた。現在の入遠野字天王である。

 戦国時代に入り、上遠野郷を統一した上遠野家は、国主「磐城常隆」の娘を嫁に迎え勢力を拡大した。

 その本拠地もまた入遠野の地から現上遠野の地に移し城を築いたのが「上遠野城」で、同時に、八幡社や寺をも城近くに移動再建している。

 慶長元年(1596)岩城家は、その家臣の転封を行ったが、そのおり上遠野大炊頭隆秀は三坂城に移り、上遠野家の支配は終わった。 

 まもなく三坂家が入城したが同家も慶長7年(1602)の岩城家の領地召上げにより城を明け渡した。

 同年、上遠野郷は、幕府の領となり、駒木根右近利政(1543〜1635)が代官となり支配した。

 上遠野は、利政が一部手直ししたことがあったと思われる。
 元和8年(1622)上遠野郷十ヶ村は棚倉藩となり、屋形の地に陣屋が置かれた。
市文化財指定 平成14年4月10日
所在地 いわき市暮らしの伝承郷内

 この住宅は、もとは、遠野町入遠野字中野地内にあって、当地方の磐城延紙の生産をしていた兼業農家だった樋口家が昭和61年まで暮らしていた。
 創建年代は、棟札等の資料が無く明らかではないが、樋口家の日伝などから19世紀前半と推定される。
当時、棚倉藩領だったこの地方の製紙産業は有名であった。天明8年(1788)幕府の巡検使に随行した古用古松軒の記録の中に「この辺の民家少し宣し」と書かれた所の民家であろう。
 土間には竈と楮竈があり竈柱が建つ。板張りの中の間と勝手、そして土間敷と奥座敷と、直屋平入り三間取りの当時の農家の典型平面形で、主体部の変格は少なく創建時の部材が多く残っている。規模が小さいにも関わらず大きな改造が少なかったのは、住居としての完成度が高かったためと思われる。
 したがって、創建時におけるこの地方の兼業農家の生活様式を知る土で貴重な民家である。
Glass studio RISA (遠野町入遠野)におじゃましました。
アユ釣りを楽しむ
秋にはここにヤナ場がつくられます。(遠野町大平)
 入上地内から天王川に沿って数百b登ったところに、八坂神社が森とした境内に祀られ、ここには、県の天然記念物に指定されている樹齢千百有余年だという二本の大杉が生えている。
 この大杉には伝説がある。むかし昔のことだが、京の都の王子様とお姫様がはげしい恋におちいった。しかし、二人はいとこどうしであったためにその仲を裂かれそうになり、手に手をとって奥州をめざして逃がれ、やっとこの地まで辿り着いた。
 京からみちのくまでの道は遠くきびしかったが、二人だけになれたことの幸せを喜びあい、このうえはあの世で千年のちぎりを結ぼうここで死の旅立ちをした。その精が杉となったのだという。
 この天王地内には水が一斗五 も入る硯石もあった。大正三年のことだが、むらの人たちはその大きな硯石を男女総出で一週間もかけて里へ引き出し、いくつたに割ったうえ八坂神社の鳥居と入遠野小学校も門柱を作った。伝説の大杉はいまも見ごとな枝ぶりを見せている。       
写真で綴るいわきの伝説より

編著者 草野日出雄  発行所 はましん企画株式会社
上遠寺(猫塚)
円通寺(木造聖観音菩薩坐像)
八坂神社
旧樋口家住宅
天王川トロン温泉 この温泉は、世界にも類を見ない最高濃度のトロン含有量が誇ります。トロンは、地中深いところでラジウムが崩壊して出来る壊変物(トロン)で、熱水により溶け出てきたものを天然ラジウム(トリウム系)が崩壊する過程でα線と呼ばれるイオン化作用で強い物質が飛び出します。そのイオン化作用が疾病に大変効果があります。
本校の卒業証書は
   遠野和紙で作られています。

  根岸の上遠寺というお寺に、昔、一匹の老猫が飼われていた。そこの坊さんは自分用の手拭を定めて使っていたのに、毎朝それが湿っているのを不思議に感じた。そこで、誰かの悪さに違いないと思ってそっと見ていると、なんと、寺の老猫が坊さんの手拭で頬かぶりをして村はずれの山へと向った。
 山は滝と根岸と上遠野の村境にあって、中腹の我々たる断崖には自然の洞穴がある。老猫はこの中へ猫の一族を呼び集め、夜をとおして踊り楽しんでいたのである。
 老猫は、後を追って来た坊さんに自分のしぐさを見られたことを知って、ついに寺には戻らなかった。この猫は、やがて洞穴をすみ家にして人畜を害し、耐え兼ねたむら人たちによって退治されたのだが、このことから猫塚の名が生まれたという。上遠寺は無住の寺となった。しかし猫塚山の洞穴はいまも昔のままである。   

   写真で綴るいわきの伝説編著者  草野日出雄   発行所  はましん企画株式会社